素人が海外で飲食店を始めた結果!
結果は2年を待たずに手放すことになりました。その過程は以下の通りです。
始めたきっかけ
45歳で途上国の救急救助技術支援を目的とする日本国際救急救助技術支援会に入会し、数十回カンボジアに渡航を重ねました。
はじめは首都プノンペンが活動拠点でしたが、そこから車で3時間ほどの所にあるリゾート地シハヌークビルに防災学校(≒消防学校)の建設が決まりました。
工事中から幾度となく足を運ぶうちに、のどかな街の雰囲気がとても好きになっていきました。

でも、はじめは「こんなところに住めればいいな~」ぐらいな軽い感じでした。
それが、まさか実際に住んで、商売まではじめるなんて。。。
50歳を過ぎたあたりから、日本国際救急救助技術支援会の活動に残された人生の時間を費やしたと考えだして、55歳頃には早期退職をしようと決めていました。
退職後の収入源を色々考えてはいましたが、高校を出てすぐに公務員となってビジネスのイロハなんて全くないド素人には非常に難しい課題でした。
結局、カンボジアの友人と協力して日本の中古生活雑貨をカンボジアで販売しようかという話になり、通関の知識も必要と思い通関士の資格を取るべく勉強を始めました。

そんな中、日本食レストランを開業しないかと、シハヌークビルに住むある日本人から相談が。。。。
その人は、現地で数年小さな食堂を営んでいましたが、中国人大量流入による賃貸物件高騰のあおりで契約更改ができない状況でした。
- 初期費用も固定費も高い
- 在庫を持つ
- 利益率が低い
- 従業員を雇う
今から考えると、こんなに素人が起業する際のNGワードがてんこ盛りな状態でしたね。
しかし、競合店は数店あるけど一店を除きどこのお店もいわゆる“なんちゃって日本料理”ばかりで本物の日本食は提供していないことや、リッチな舌が肥えた中国人が今後も多数流入する事を考えると、これはいけるんではないか?きっといける!と非常に興味深い話に思いました。

開店準備
話は急展開で進み、2017年3月に退職するまでにお店の場所を決めて改装工事に入りました。それと並行して日本より格段給料が安く、生活しづらい途上国での勤務になるが本物の日本料理が提供ができる方という条件で、料理長の求人広告を出しました。
この条件では難しいかなっと思っていましたが、自身の腕前一本で生きている職人さんにとっては、「おもしろそう」という理由でたくさんの方のお申し出があったのはちょっとビックリでしたね。
最終的に書類審査と面接で、人柄が一番よいと思った方に決定して4月中旬には改装中のお店に来ていただきました。
私も現地調達が難しい物品を大量に空輸したり、自身で持ち込んだり、現地の従業員を雇ったりして5月上旬のオープン予定日に向けて着々と準備を進めていきました。
しかし、工事の進み具合からどうもオープン予定日までに工事が終わりそうな雰囲気は感じられません。現地の棟梁に聞いても「アッパニハ」(大丈夫)というだけで、5月を迎えることに。

早く工事を終わらせたいので、調理長や私もできる大工仕事は手伝いましたが、遅れに遅れ結局オープンできたのは6月の中旬でした。
カンボジアには工期を守るという概念がないのはこれまでの経験から知ってはいましたが、個人経営のビジネスにはさすがにこたえました。
その間も雇い入れた従業員の人件費や家賃、光熱費等の固定費はもちろん発生しており、さらに当初予定していた改装費の3倍以上の費用がかかりました。
開店を持ち掛けてきた日本人はフロアマネージャーとして雇用していたので、見積もりの甘さについて話しましたが納得いく回答はなかったですね。

この日本人は、話を持ち掛けて来た時は調子が良かったですが、その後は完全に給料ドロボーになってしまいまいした。
私が日本に帰国中に店内の様子をセキュリティーカメラでチェックすると、いつもカウンターに突っ伏して寝ていたので、早々に解雇しました。
後で現地在住の日本人の複数の方からいろいろ彼に関する話が耳に入ってきましたが、完全にリサーチ不足でした。まあ、私に見る目がなかったということで、これもいい経験と思っています。
いよいよ開店!
開店後は料理長の頑張りと他のカンボジア従業員の協力のもとに、私も広報にいろいろ手を尽くした結果、1日数組だった来客が順調に右肩上がりに増えていき開店から1年後にはとうとう黒字に転じました!
ここで勉強になったのはカンボジアではFBで1日1ドルの広告費でも2000人ぐらいには送られるので、地域や興味の選択をちゃんとすればかなり効果的だったように感じました。
キッチンに料理長以外に仕込み時に1人、営業中は2人とホールには3人計6名のカンボジア人スタッフは本当にみんなまじめでしっかり仕事をしてくれてました。
料理長も毎日仕入れから仕込み、その日の食材からサービスメニュー決定まで身を粉にして働いてくれました。





そして。。。
地元やプノンペンからバカンスで来るカンボジア人の方々にはある程度知名度が浸透してきたと判断し、次にこの頃には地元住民の数倍の人口になっていた中国人の取り込みをするために中国語の広告やメニューの一新する準備開始していました。

しかし、その直後に孤軍奮闘の料理長が風土病にり患してしまい、約1か月の休業期間ができてしましました。
料理長はかなり疲れていたので、免疫力も低下していたのでしょう。
そして、改装費の3倍増、固定費も予定より大幅に増額、毎月の様に必要な店の修繕費と今回の休業以前にも、2回ほど10日間の休業期間があったこともボデーブローで効いて、この時には既にもう余剰資金はありませんでした。
見透かしたように、このタイミングでこのお店の大家さんから事業引継ぎの話があり、自分としては断腸の思いでしたが現実的な問題を直視すると選択肢はないと判断しました。
事業引継ぎ後もサポートは継続することでお店はしばらく営業しましたが、明らかにみんなの情熱は失せており、その後閉店となりました。

今回の閉店原因としては
- 改装費3倍
- 固定費2倍
- 料理長を補う人材が育成できなかった
が主な原因と考えています。
特に人材育成については、料理長に必要以上の負担をかける結果となり残念でなりません。
営業中も何人か採用しましたが、期待にそうような人材はいてませんでした。
まとめ
ここまでの経験から、これから海外で飲食店の開業をお考えの方に私がアドバイスするなら次の通りです。
- お店は居ぬき物件
- (日本)料理はサーモン握りさえできれば何とかなるので、1年ほど料理学校で学び自分で覚えて初めのうちは自身で調理する
- 味はあまり追及せず、それらしい味で大丈夫。ただし見た目は重要
- 味付けは舌でするのではなく全て分量を記載
- 上記の分量通り作成すれば同じ味が出るようにすれば現地の従業員も作成可能
- 3名ほど日本料理ができる人材を育成
- そのうち1人をチーフとしてみっちり指導
- 人件費で一番高いのは日本人なので雇わない
- 3年分のランニングコストは必要
これができれば、大化けは無理ですがある程度の収入が計算できるし、お店につききっりの状態から解放されます。ただし、3年間ぐらいはこれに全集中が必要です。
でも、やはり飲食は素人にはギャンブルになるのでよ~く考えてから行動をはじめましょう。
私自身は、この経験は非常に厳しいものでしたが、学べたことも多く今後の人生の糧にしていきます。
おまけ
実は、この事業とは別にアフリカのガンビアでも砂利採取のビジネスを細々とやっています。現在はあまり動きがあまりありませんが、こちらも何か進展があれば書いてみたいと思います。
では今日はここまで!
お・し・ま・い
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