はじめに
救急救命士を目指す学生は、まじめだ。教科書を読み、ガイドラインを覚え、シミュレーションでは正確に動こうとする。それは間違っていない。いや、むしろそうであってほしい。
ただし、ひとつだけ問題がある。
それは、「きれいな救急医療」だけを教えたまま現場に送り出してしまうことだ。
「きれいな救急医療」とは何か

学生が学校で学ぶ救急医療は、たいていこうだ。
- バイタルサインは把握している
- 病態はある程度整理されている
- 症候分類は掴めている
- 搬送先は対応可能病院であればスムーズに決まる
これは決して嘘ではない。教育としては、必要不可欠な世界だ。
OSCEや実習、シミュレーション教育では、この「きれいな前提」がなければ評価も指導もできない。
問題は、それが「現場も同じだ」と無意識に刷り込まれてしまうことにある。
現場は、きれいではない

実際の現場では、こうだ。
- 情報は抜けている
- 本人の訴えは曖昧
- 家族の話は食い違う
- 病院は必ずしも受けてくれない
そして何より、救急隊は「正解」を出す役割ではない。
救急隊の役割は、不完全な情報を制度と基準の言葉に翻訳し、病院が判断できる形に整えることだ。ここに、学生が想定していない“段差”がある。
「エビデンスがすべて」「経験談は危険」という意見について
救急教育の現場では、こんな意見を聞くことがある。
- 「今はエビデンスがすべてだ」
- 「現場の経験を語るのはよくない」
- 「個人の体験談は再現性がない」
この考え方は、半分は正しい。
エビデンスに基づかない医療は、独りよがりになり、再現性を失い、教育として危うくなる。
だから「自分の経験ではこうだった」という話をそのまま正解として教えるのは、確かに危険だ。
しかし、私はこう思っている。それは半分正解で、半分は不正解だ。

経験は「正解」ではなく「文脈」として教える
現場の経験が問題になるのは、それを「結論」として教えてしまうときだ。
- 「俺のときはこうだった」
- 「現場ではだいたいこうなる」
これを正解として押し付ければ、それはエビデンスを壊す。だが、経験にはもう一つの役割がある。
それは、エビデンスが使われる“文脈”を伝えることだ。
- なぜガイドライン通りに進まない場面があるのか
- なぜ病院との調整が必要になるのか
- なぜ「正しい医療」がそのまま通らないのか
これらは、エビデンスだけでは伝えきれない。
エビデンスと経験は対立しない
エビデンスは「地図」だ。経験は「地形」だ。地図がなければ進めない。だが、地形を知らなければ迷う。
学生に必要なのは、
- エビデンスを信じる力
- そのエビデンスを、現実の地形に当てはめる感覚
この両方だと思う。
経験を教えることが悪いのではない。経験を「正解」として教えることが悪い。
経験は、考えるための材料として、判断を補助する情報として、使われるべきものだ。

「きれいな医療」だけを教えると、何が起きるか
現場に出たばかりの新人救急隊員が、よく口にする言葉がある。
- 「ちゃんと説明したのに断られました」
- 「こんなに重そうなのに受けてもらえません」
- 「病院が冷たいと思いました」
これは能力の問題ではない。教育の段階で、現実を教えていないだけだ。
学生は正しいことを言っている。丁寧に説明している。それでも断られる。
そのとき、学生はこう思ってしまう。
- 「自分が悪いのか」
- 「現場は理不尽だ」
これは本人にとっても、組織にとっても、明確な教育事故である。
教えるべきは「正解」ではなく「型」
エビデンスは正解を示す。だが現場では、その正解をそのまま使えない場面がある。
だから学生に教えるべきなのは、正解そのものではなく、正解を現実に当てはめるための思考の型だ。
- 主観を使わない
- 感じた重さを「基準の言葉」に変換する
- 病院が何を判断しようとしているかを考える
例(主観 → 基準語への変換)
悪い例:
「見た感じ、かなり重そうです」
良い例:
「実施基準上、〇〇分類に該当します」
この違いは大きい。これはテクニックではない。役割理解そのものだ。
現場は理想を壊す場所ではない
よく、こう言われる。「現場に出たら理想は壊れる」
違う。壊れるのは理想ではない。理想しか知らないまま現場に出たときに、人が壊れる。
現実を知ったうえで理想を持つこと。それができれば、理想は武器になる。
おわりに
救急救命士に必要なのは、
- きれいな救急医療を信じる心
- きれいではない現実を扱う技術
その両方だ。
学生に「夢」だけを教えるのは簡単だ。
「現実」だけを突きつけるのも簡単だ。
でも本当に必要なのは、夢を持ったまま現実に立つ方法を教えることだ。
それが、教育の役割であり、現場を知る者の責任だと、私は思っている。






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