「火事ですか? 救急ですか?」119番に電話すると、こんな言葉から始まることがあります。救急車の出動が年間770万件を超える現在でも、消防庁が紹介している119番通報の案内では「火事」が先に登場します。
もちろん、この順序だけで消防組織が救急業務を軽視しているとはいえません。しかし、そこには消防の歴史と、現在の消防業務の実態を考える興味深い問いがあります。
救急出動が消防業務の大きな割合を占める時代に、救急隊は消防組織の中でどのように位置づけられるべきなのでしょうか。
そして、医学的な専門性を高め続ける救急救命士は、今後も消防職員であり続けることが望ましいのでしょうか。それとも、医療に軸足を置いた独立した救急組織へと進むのでしょうか。この問題は、組織の所属先を変更するだけで答えが出るものではありません。
消防組織は、救急救命士の専門性を十分に生かせているのか。一方で、救急救命士自身は、消防職員としての幅広い使命を十分に理解しているのか。今回は、「病態を診る、人を診る、地域を視る」という三つの視点から、日本の消防救急の将来を考えてみたいと思います。
- 1.日本では、なぜ救急車が消防署から来るのか
- 2.年間770万件を超える救急出動と消防の現実
- 3.「火事ですか? 救急ですか?」という第一声
- 4.救助隊、消火隊、救急隊。その評価に違いはあるのか
- 5.救急救命士の医療専門職化は、何をもたらしたのか
- 6.「病態を診る、人を診る、地域を視る」
- 7.救急活動を防災・減災の一分野として捉える
- 8.それでも、救急隊が消防組織に所属する強みは大きい
- 9.海外のEMSは消防組織の中にあるのか
- 10.消防から独立すれば、問題は解決するのか
- 11.救急救命士養成教育にも問われること
- 12.2050年、日本の救急隊はどこにいるのか
- おわりに:救急隊が消防にある意味を、もう一度考える
- 参考文献・出典
1.日本では、なぜ救急車が消防署から来るのか
救急業務は消防の歴史の中で発展してきた
日本の救急業務が消防機関の中で発展した背景には、交通事故の増加と、それに対応するための行政体制の整備があります。高度経済成長期、自動車交通の発達に伴って交通事故が深刻な社会問題となりました。こうした状況の中、1963年(昭和38年)の消防法改正により、消防機関の救急業務が法制化されました。
つまり、日本の救急業務は、初めから現在のような病院前救急医療を中心とする仕組みとして誕生したわけではありません。交通事故などで負傷した人を、迅速に医療機関へ搬送する社会的な必要性が、その発展を後押ししたのです。その後、救急需要は交通事故中心から急病への対応へと大きく変化しました。
1991年(平成3年)には救急救命士法が施行され、救急救命士という国家資格が創設されました。これによって、従来の搬送を中心とした救急業務に、医師の指示の下で実施する一定の救急救命処置という医療的な役割が制度として加わりました。
日本の救急業務は、消防という行政組織の中で、医療専門職を育成・運用する独自の仕組みを発展させてきたのです。
法律上も救急は消防の重要な任務
消防組織法第1条では、消防の任務として、火災から国民の生命・身体・財産を保護すること、災害の防除と被害の軽減に加え、災害等による傷病者の適切な搬送が規定されています。また、2009年(平成21年)の消防法改正では、第1条の目的規定に傷病者の適切な搬送が明示されました。
救急は、消防の付随的な仕事ではありません。法律上も、消防が担う重要な任務の一つとして位置づけられています。しかし、法律上の位置づけと、組織内における実際の評価や文化が、必ずしも一致するとは限りません。
2.年間770万件を超える救急出動と消防の現実
総務省消防庁の「令和7年版消防白書」によると、2024年(令和6年)の全国の救急出動件数は771万8,380件で、統計開始以来の最多となりました。平均すると、約4.1秒に1回、全国のどこかで救急車が出動している計算です。
同年の救急搬送人員は676万8,811人でした。また、2025年4月1日時点で、全国には5,485隊の救急隊が設置されています。救急救命士資格を有する消防職員は4万6,126人。このうち3万1,753人が救急救命士として運用されています。
全国5,485隊の救急隊のうち、救急救命士を運用しているのは5,472隊で、99.8%に達しています。救急救命士は、一部の特別な救急隊だけに配置される存在ではなく、全国の消防救急を支える専門職となっています。
119番通報の7割以上が救急・救助関係
2024年の119番通報件数は1,014万1,584件で、そのうち救急・救助関係が72.4%を占めています。なお、この72.4%は救急と救助の合算値であり、救急単独の通報比率ではありません。救急が現在の消防行政を支える主要な業務であることは、これらの数字からも読み取れます。
ただし、出動件数が多いことだけで、業務の価値や必要な人員数を判断することはできません。消防、救助、救急には、それぞれ異なる危険性、専門性、待機体制が求められます。重要なのは、業務の性質と社会的な必要性を踏まえ、組織としてどのように資源を配分し、専門職を育成していくかということです。
3.「火事ですか? 救急ですか?」という第一声

総務省消防庁が公開する「119番の正しいかけ方」では、消防署側の第一声として、次の言葉が紹介されています。「119番、消防署です。火事ですか?救急ですか?」救急要請が圧倒的に多い現代にあっても、例示される問いかけでは「火事」が先に置かれています。
これは、消防という組織の歴史的な成り立ちを考えると、興味深い表現です。もちろん、実際の119番受信方法は消防本部の運用によって異なり、通報内容を迅速に把握するための定型的な問いかけには実務上の意味があります。
「火事」が先だから救急が軽視されている、という単純な話ではありません。それでも、この言葉をきっかけに考えてみたいことがあります。消防の業務が大きく変化する中で、私たちは現在も、火災対応を中心に発展してきた消防組織の価値観を、そのまま受け継いでいる部分があるのではないでしょうか。
伝統そのものが問題なのではありません。
時代とともに業務が変化したとき、組織の評価基準や人材育成の仕組みも、十分に変化しているのか。
この問いこそが重要なのです。
4.救助隊、消火隊、救急隊。その評価に違いはあるのか
消防職員にとって、救助隊は特別な存在として映ることがあります。高い身体能力と救助技術を身につけ、厳しい訓練を積み重ね、人命救助の最前線に立つ。その姿に憧れて消防職員を志望する人もいるでしょう。
一方、消火隊は消防の歴史を支えてきた中心的な存在です。火災現場では、迅速な消火活動と人命検索、延焼防止など、地域の安全を守る重要な役割を担います。では、救急隊はどうでしょうか。
救助隊 > 消火隊 > 救急隊という意識は存在するのか
特に大規模な消防組織において、救助隊が花形とされ、消火隊が消防の中心と捉えられ、救急隊の評価が相対的に低くなっているのではないか。そのような問題意識を持つことがあります。もっとも、これは全国の消防本部に共通する序列として実証されたものではなく、客観的な調査と検証が必要な仮説です。
問題にしたいのは、どの隊が偉いかという話ではありません。
組織の中で高く評価される能力と、住民の生命を守るために日常的に必要とされる能力が、どこまで一致しているのかということです。
救急隊員には、限られた情報と時間の中で傷病者を観察し、病態を推測し、緊急度を判断し、必要な処置と搬送につなげる能力が求められます。その判断は、目立つ活動ばかりではありません。
一見すると大きな変化のない傷病者から、重篤な疾病の兆候を見つけることもあります。本人の訴えが曖昧な場面で、生活背景や家族の話から重要な情報を得ることもあります。これらは高度な専門能力ですが、外部からは見えにくいものでもあります。
臨床経験を積み重ねるキャリアは確立しているか
救急救命士が専門性を高めようとしたとき、消防組織はその努力をどのように評価しているでしょうか。救急隊で長く経験を積むことは、昇任や人事評価にどのように反映されるのでしょうか。
管理職になることで救急現場を離れる場合、これまで蓄積した臨床経験を組織の教育や活動の質の改善に生かす仕組みは十分でしょうか。
消防組織内の異動は、消防・救助・救急を理解する幅広い経験につながります。一方、専門性の継続的な蓄積という面では、課題が生じる可能性もあります。幅広い消防業務を理解する人材と、救急医療の専門性を深める人材を、どのように育成し、評価するのか。
その両立が、これからの消防組織に求められるのではないでしょうか。
5.救急救命士の医療専門職化は、何をもたらしたのか
医学的な専門性を高めることは必要不可欠
救急救命士制度の創設以降、消防の救急活動は大きく変化しました。現在の救急救命士には、観察、緊急度・重症度判断、救急救命処置、医療機関との連携など、医学的知識に基づく判断と行動が求められています。
消防機関に所属する救急救命士には、資格取得後の病院実習や継続的な再教育の仕組みも整備されています。症例検討、シミュレーション訓練、医学的な知識の更新、メディカルコントロール体制の充実は、病院前救護の質を高めるうえで重要です。こうした取り組みは、今後もさらに充実させる必要があるでしょう。
しかし、ここで一つ考えてみたいことがあります。
医療を深く学ぶことが、視野を狭めてはいないか
救急救命士が医学的な専門性を高めること自体に問題はありません。ただし、その専門性を追求するあまり、消防職員としての広い役割や地域社会との関わりに目を向ける機会が少なくなってはいないでしょうか。
救急救命士の教育では、医学知識や救急救命処置、病態理解などに多くの時間が使われます。それでは、消防行政、防災・減災、事故予防、地域の危険要因、住民教育などについては、どの程度学び、考える機会があるのでしょうか。
救急活動を行ううえで医学知識は不可欠ですが、救急業務は医療だけで成り立つものではありません。現場の安全確保、消防隊や救助隊との連携、住民の生活環境、地域の災害特性など、医学だけでは解決できない問題も存在します。
もちろん、すべての救急救命士が医学的な分野だけに関心を向けているわけではありません。実際には、予防活動や地域への啓発にも積極的に関わる救急救命士がいます。
問題は、個人の姿勢だけではなく、組織と教育制度が、救急救命士にどのような専門職像を示しているのかという点にあるのかもしれません。
6.「病態を診る、人を診る、地域を視る」

医学には、病気という現象だけでなく、その病気を持つ人間を理解することが重要だという考え方があります。この考え方は、消防の救急救命士にも当てはまるのではないでしょうか。
ただし、消防に所属する救急救命士の場合、さらにもう一つの視点を加えたいと思います。それが「地域を視る」という考え方です。
病態を診る
救急現場では、傷病者の症状、身体所見、バイタルサインなどから病態を推測し、緊急度・重症度を判断します。心筋梗塞や脳卒中などの重篤な疾病を疑い、適切な処置と医療機関選定につなげることは、救急救命士の重要な能力です。
医学的知識が不十分であれば、傷病者の危険な兆候を見逃す可能性があります。したがって、「病態を診る」能力を高めることは、救急救命士の専門性の基盤です。
人を診る
しかし、同じ病態であっても、傷病者の置かれている状況は一人ひとり異なります。独居なのか、家族がいるのか、どのような生活を送っているのか。本人は何を不安に思い、どのような意思を持っているのか。傷病者の訴えを丁寧に聞き、その人を一人の人間として尊重することも重要です。
「人を診る」とは、単に身体の状態を調べることではありません。病気やけがをした人の背景や意思にも目を向け、救急救命士として認められた業務範囲の中で、適切な対応につなげるという意味です。
地域を視る

そして、消防職員としてもう一つ考えたいのが、地域全体を見る視点です。なぜ、その事故は発生したのでしょうか。なぜ、同じ地域で類似した救急事案が繰り返されるのでしょうか。同じような傷病者を減らすために、消防組織としてできることはないのでしょうか。
救急活動は、目の前の一人に対応する仕事です。一方、消防には地域社会全体の生命と安全を守る使命があります。
救急現場で得られた経験を、次の傷病者を生まないための活動につなげる。
そこに、消防組織に所属する救急救命士ならではの可能性があると考えます。
高齢者の転倒事案を三つの視点で考える
例えば、自宅で転倒した高齢者から救急要請があったとします。
| 視点 | 救急救命士が考えること |
|---|---|
| 病態を診る | 頭部外傷や骨折、意識状態、神経症状、服薬状況、転倒の原因となった疾病の可能性 |
| 人を診る | 本人の意思、普段の生活、独居かどうか、家族や介護サービスとの関係 |
| 地域を視る | 地域内の高齢者転倒事案の傾向、住民への予防啓発、保健・福祉部門との連携 |
救急現場では、まず傷病者の安全と適切な救護が優先されます。その場で転倒防止対策まで実施する必要がある、という話ではありません。しかし、救急活動の記録や地域の統計を適切に分析することで、転倒事故の予防に役立つ情報が得られるかもしれません。
このような活動は、救急隊だけで完結するものではなく、消防の予防部門、自治体の保健・福祉部門、医療機関などとの連携によって実現するものです。
7.救急活動を防災・減災の一分野として捉える
消防の大きな特徴の一つは、発生した災害に対応するだけでなく、被害を未然に防ぎ、あるいは軽減するための役割を担っていることです。救急にも、この考え方を広げる余地があります。
救急隊は地域の危険を知る貴重な存在
救急隊は日々の活動を通じて、住民の生活環境に直接接しています。交通事故が繰り返される場所、高齢者の転倒が多い住宅環境、夏季に熱中症が発生しやすい生活状況など、救急現場には地域の安全に関する情報が含まれています。
こうした知見を単なる活動記録として蓄積するだけでなく、統計的に分析し、関係機関と共有することができれば、予防活動に生かせる可能性があります。
例えば、
- 交通事故の発生傾向を交通安全担当部門などと共有する
- 高齢者の転倒事案の特徴を地域の介護予防活動に生かす
- 熱中症の救急搬送傾向を住民への注意喚起につなげる
- 水辺の事故状況を踏まえて水難事故防止の啓発に協力する
といった取り組みが考えられます。
ただし、救急活動記録の活用には個人情報保護が不可欠であり、適切な匿名化や集計、利用目的、組織の規程などへの配慮が必要です。
「救命できたか」だけでなく、「発生を防げたか」
救急活動の質を評価する際には、適切な観察や処置、搬送、傷病者の転帰などが重要になります。防災・減災の観点では、事故や疾病の発生そのものを減らすことも重要です。
これは救急救命士の活動評価を、救急搬送件数の減少だけに置き換えるという意味ではありません。必要な救急要請をためらわせないことも重要だからです。求められるのは、救急医療の質と地域の安全の向上を、それぞれ適切な指標で評価しながら連携させる考え方でしょう。
8.それでも、救急隊が消防組織に所属する強みは大きい

ここまで消防組織の課題を考えてきましたが、それだけを理由に救急隊を消防から分離するべきだとはいえません。消防組織の中に救急隊があることには、明確な強みがあります。
消防・救助・救急を一体的に運用できる
交通事故で車内に閉じ込められた傷病者を考えてみましょう。現場では、車両の安定化、危険排除、救出活動、傷病者の観察・処置、搬送が連続して行われます。これらを救助隊、消防隊、救急隊が連携して進めることが重要です。
消防庁の「救助活動に関する基準」でも、救助隊と消防隊・救急隊との緊密な連携が求められています。同じ組織の指揮命令系統の下で活動できることは、状況によって大きな利点となります。
また、119番指令による部隊運用、消防隊との連携出動、災害時の相互支援など、日本の消防救急は多くの機能を一体的に整備してきました。
大規模災害への対応
地震や水害などの大規模災害では、消防隊、救助隊、救急隊が連携して対応します。消防庁は2025年の緊急消防援助隊に関する計画改定で、大規模災害時の救急需要に対応するため「救急特別編成部隊」の仕組みも設けています。
これは、救急が災害対応から切り離せない重要な機能であることを示す取り組みの一つです。ただし、消防から独立した救急組織では災害対応ができない、ということではありません。別組織であっても、共通の指揮体系、訓練、通信、応援協定などによって連携することは可能です。
問題は、同じ組織であることによる一体性を重視するのか、専門組織間の連携によって実現するのかという仕組みの違いです。
9.海外のEMSは消防組織の中にあるのか
海外に目を向けると、救急医療サービスの組織形態は一様ではありません。
米国:Fire-based EMSという選択
米国では、日本と同じように消防機関が救急医療サービスを提供する地域がありますが、救急専門の公的機関や病院、民間事業者が担う地域もあります。米国政府のEMS.govは、救急医療サービスの組織形態や財源は地域によって大きく異なると説明しています。
つまり、米国でも消防型EMSが唯一の形ではありません。
英国:医療システムの一部としての救急
イングランドでは、NHSの救急車サービスが病院前救急医療を担っています。その役割は、救急車で患者を病院へ搬送することだけではありません。電話による助言や他の医療サービスへの紹介、現場での評価・処置、必要な患者の搬送など、多様な対応が組み込まれています。
この仕組みは、病院前救急医療を地域医療全体の中で捉えるという点で参考になります。ただし、日本とは医療提供体制、財源、資格制度などが異なるため、そのまま導入できるわけではありません。
オーストラリア:専門性と地域医療との接続
ビクトリア州では、Ambulance Victoriaが専門的な救急医療サービスを提供しています。Paramedicは、現場での評価や処置だけでなく、適切な医療サービスへの紹介や搬送先の判断にも関わっています。
同州では、救急車と医療機関との円滑な患者引継ぎも重要な課題として扱われています。救急組織が消防から独立していることと、救急医療システムが単独で完結していることは、同じではないのです。
海外比較から何が分かるのか
米国のEMS.govは、EMSを医療、公衆衛生、危機管理、公共安全が交差する領域として説明しています。これは、今回考えてきた「地域を視る」という視点にもつながります。消防型であれ、独立型であれ、救急医療サービスは医療だけで完結するものではありません。
救急組織の名称や所属先よりも、医療・消防・防災・地域社会をどのようにつなぐかが重要なのです。
10.消防から独立すれば、問題は解決するのか
救急隊を消防組織から独立させれば、医療専門職としてのキャリア形成や専門教育を充実させやすくなる可能性があります。消防・救助との連携、指令システムの運用、財源の確保、過疎地域の救急体制など、新たに検討しなければならない課題も生じます。
ここでは、日本の消防救急の将来について、四つのモデルを考えてみます。
| 将来モデル | 期待される利点 | 主な課題 |
|---|---|---|
| A.現行消防体制の改善 | 既存の指令・部隊運用・施設を活用できる | 人事評価や専門教育の課題が残る可能性 |
| B.消防内の救急部門を専門化 | 消防との一体性を保ちながら臨床経験を蓄積しやすい | 専門職人事と一般の消防人事の調整 |
| C.消防と医療の連携を強化 | 病院実習、教育、研究、地域医療との接続を強められる | 組織間の役割・責任分担 |
| D.独立した救急医療組織 | 救急医療に特化した組織運営やキャリアを設計できる | 財源、指令、消防・救助との連携、地域格差 |
これらは、現在の制度改革として決定された四つの選択肢ではなく、将来を考えるためのモデルです。また、互いに完全に排他的なものでもありません。例えば、消防組織内で救急部門の専門性を高めながら、医療機関との人事交流や教育連携を進めることも考えられます。
「独立」と「専門職化」は同じではない
ここで区別したいのが、救急隊の組織的な独立と、救急救命士の専門職化です。救急救命士の専門性を高めるために、必ずしも消防から独立する必要はありません。逆に、独立した救急組織を設置しただけで、優れた教育体制や適切なキャリア制度が整うわけでもありません。
専門性を継続的に高められる人事制度、現場経験を評価する仕組み、教育・研究の体制、医療機関との連携が必要です。
日本の消防救急に必要なのは、組織を分けるかどうかという議論に先立って、どのような救急救命士を育て、どのような救急医療サービスを住民に提供したいのかを明確にすることではないでしょうか。
11.救急救命士養成教育にも問われること

この問題は、現役の消防職員や救急救命士だけの問題ではありません。大学や専門学校で救急救命士を養成する教育にも関係しています。救急救命士を目指す学生は、解剖生理学、病態生理学、救急医学、救急救命処置など、多くの医学的知識と技術を学びます。
もちろん、これらは欠かせない教育です。しかし、国家試験に合格し、救急救命処置を適切に実施できるようになることだけが、教育の最終的な目標でよいのでしょうか。
消防職員として必要な視野も育てる
消防機関への就職を目指す学生には、消防行政や消防組織の役割、救助活動、防災・減災、地域の安全などについて理解することも重要です。また、消防以外の医療機関などで働く救急救命士にとっても、公衆衛生、地域医療、多職種連携などの視点は欠かせません。
そのため、救急救命士養成教育では、医学的な専門性に加え、地域社会の課題を理解し、他職種と協働できる能力を育成することも重要になると考えます。例えば、地域の救急搬送データを分析し、高齢者の転倒や熱中症などの発生傾向を考察する学習も、その一つでしょう。
あるいは、救急現場の症例を検討する際に、医学的な評価だけでなく、現場の安全、生活背景、事故の再発防止まで考えることもできます。救急救命士が将来、消防で働くか、医療機関で働くかにかかわらず、こうした学びは役立つはずです。
専門性を深めながら、視野も広げる
専門性を深めることと、広い視野を持つことは対立しません。むしろ、医学的な知識があるからこそ、傷病者の生活背景や地域の健康問題に気づける場合もあります。大切なのは、教育の中でその二つを結びつけることです。
病態を診る力を基礎として、人を診る力を育て、地域を視る視点を身につける。
救急救命士養成教育には、そのような幅広い学びが求められるのではないでしょうか。
12.2050年、日本の救急隊はどこにいるのか
2050年の日本で、救急隊は現在と同じように消防署から出動しているのでしょうか。それとも、消防とは異なる救急医療専門組織が、地域の病院前救急医療を担っているのでしょうか。現時点で、その将来を断定することはできません。
ただし、これからの救急医療を考えるうえで、高齢化、救急需要、医療資源の地域差、救急救命士の専門性などが重要な課題であることは確かです。2024年の救急搬送人員のうち、高齢者は63.3%を占めています。
今後も、救急隊にはさまざまな医学的・社会的背景を持つ傷病者への対応が求められるでしょう。そのような時代に、従来と同じ組織の仕組みでよいのかを検討することには意味があります。しかし、消防からの独立が唯一の答えとは限りません。
消防組織の中で救急部門の専門性を高めることも、医療機関との連携をさらに深めることも、独立した組織の可能性を検討することも、いずれも将来の選択肢となり得ます。そして、どのような形になったとしても、忘れてはならないことがあります。
救急救命士が医学的な知識と技術を高めることは、目の前の傷病者を守るために不可欠です。しかし、それだけでは、地域社会の安全に関するすべての課題が解決するわけではありません。また、消防組織の中に救急隊があること自体が、その救急隊の価値を保証するわけでもありません。
組織として救急救命士の専門性を評価し、育成すること。
救急救命士自身が、自らの専門性を社会全体の安全につなげていくこと。
この両方が求められます。
おわりに:救急隊が消防にある意味を、もう一度考える
救急隊が消防組織から独立するべきか、それとも消防組織の中にあり続けるべきか。
この問いに対して、現段階で一つの答えを出す必要はないと考えます。
むしろ、問い続けることに意味があるのではないでしょうか。
消防組織に対しては、救急業務と救急救命士の専門性を、組織の中でどのように評価し、育てていくのかを問いかけたいと思います。
救急救命士に対しては、医学的な専門性を高めることに加え、傷病者の生活や地域社会の安全まで視野を広げられているかを問いかけたいと思います。
また、救急救命士を養成する教育機関に対しても、医学知識と技術だけでなく、地域社会を理解し、さまざまな職種と協働する人材を育てられているかという問いが向けられます。
救急隊が消防署から出動するのか、独立した救急医療組織から出動するのか。
その組織形態は将来変わるかもしれません。
しかし、住民の生命を守るという目的は変わりません。
「病態を診る、人を診る、地域を視る」
この三つの視点を持ち、目の前の傷病者への適切な対応と、地域社会の安全を結びつけられる救急救命士を育てること。
それが、これからの日本の消防救急を考えるうえで、一つの重要な方向性になるのではないでしょうか。
最後に、三つの問いを残したいと思います。
消防職員の皆さんは、所属する組織が救急救命士の専門性を十分に生かせていると思いますか。
救急救命士の皆さんは、医療専門職としての能力を高めながら、地域社会の安全にどこまで目を向けているでしょうか。
そして、これから救急救命士を目指す学生の皆さんは、どのような専門職になりたいと考えていますか。
救急隊の未来は、組織の名称だけで決まるものではありません。
その組織で働く人々が、何を大切にし、どのような使命を持ち続けるかによっても変わっていくのだと思います。
参考文献・出典
- 総務省消防庁「令和7年版消防白書 第2章第5節 救急体制」
https://www.fdma.go.jp/publication/hakusho/r7/chapter2/section5/69369.html - 総務省消防庁「令和7年版消防白書 救急業務の実施体制」
https://www.fdma.go.jp/publication/hakusho/r7/chapter2/section5/69371.html - 総務省消防庁「令和7年版消防白書 消防防災施設等」
https://www.fdma.go.jp/publication/hakusho/r7/chapter2/section1/69245.html - 総務省消防庁「119番の正しいかけ方」
https://www.fdma.go.jp/publication/materials/post11.html - 総務省消防庁「平成21年版消防白書 消防法の改正」
https://www.fdma.go.jp/publication/hakusho/h21/cat1/cat1040/2295.html - 総務省消防庁「令和5年版消防白書 救急業務高度化の推進」
https://www.fdma.go.jp/publication/hakusho/r5/chapter2/section5/66962.html - e-Gov法令検索「消防組織法」「消防法」「救急救命士法」
https://laws.e-gov.go.jp/ - 総務省消防庁「救助活動に関する基準」
https://www.fdma.go.jp/laws/kokuji/post77/ - EMS.gov「What Is EMS?」
https://www.ems.gov/what-is-ems/ - EMS.gov「Frequently Asked Questions」
https://www.ems.gov/what-is-ems/faqs/ - NHS England「Ambulance emergency and urgent care service specification」
https://www.england.nhs.uk/publication/ambulance-emergency-and-urgent-care-service-specification/ - Ambulance Victoria「Our Services」
https://www.ambulance.vic.gov.au/our-services - Victoria Department of Health「Ambulance and patient transport」
https://www.health.vic.gov.au/patient-care/ambulance-and-non-emergency-patient-transport


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