ある日の夕方、自宅で60代の男性が突然倒れました。
家族が119番通報し、救急隊が到着したとき、男性は心臓が停止し、正常な呼吸もない状態でした。
救急隊は直ちに胸骨圧迫を開始し、心電図を確認します。必要に応じて電気ショックを行い、救急救命士はアドレナリンという薬剤の投与も検討します。
ところが、ここに一つの疑問があります。
なぜ、救急救命士はアドレナリンを救急車に積んでいても、自分の判断だけでは投与できないのでしょうか。
2026年10月7日、厚生労働省の「第3回 救急救命処置の在り方に関する検討会」で、この仕組みの見直しを含む6つの課題が取り上げられました。
検討されたのは、心停止に対するアドレナリン投与の指示方法、交通事故などによる大量出血への薬剤投与、気管切開チューブの再挿入、骨髄からの薬剤投与などです。
これらは専門家だけの問題ではありません。自分や家族が救急車で搬送されるとき、どのような処置を、どの段階で受けられるかに関わる問題です。
ただし、今回の資料で示された内容が、すべて正式に制度化されたわけではありません。
以下では、2026年10月7日の厚生労働省公表資料を基に、具体的な症例から今回の検討内容を考えてみます。
※本文中の症例は、制度を理解するために設定した架空の事例です。実際の患者や救急活動を記録したものではありません。
- 1.心停止した男性。アドレナリン投与に医師の指示が必要なのはなぜか
- 2.交通事故で大量出血した男性。救急車の中で止血薬を使えるようになるのか
- 3.点滴はすでに入っている。それでも交換が必要なのか
- 4.気管切開チューブが抜けた。在宅患者の呼吸をどう守るのか
- 5.点滴ができない心停止患者。骨から薬を投与する方法とは
- 6.病院で働く救急救命士。特定行為の認定は誰が行うのか
- 7.今回の6つの見直しで何が変わる可能性があるのか
- 8.なぜ救急救命士の処置拡大には時間がかかるのか
- 9.医師の指示を減らせば、救急医療はよくなるのか
- 10.処置が増えるだけで、救急救命士の専門性は高まるのか
- 11.救急救命士制度のこれから
- 12.まとめ:救急救命士の処置拡大は、患者のための制度改革であるべき
- よくある質問(FAQ)
- 参考資料・文献
1.心停止した男性。アドレナリン投与に医師の指示が必要なのはなぜか
自宅で突然倒れた65歳の男性

夕食前、65歳の男性が突然意識を失いました。家族が119番通報し、通信指令員の指導を受けながら胸骨圧迫を始めます。
救急隊到着後、心電図を確認したところ、心室細動という危険な不整脈が認められました。
心室細動は、心臓の筋肉が無秩序に震え、血液を全身へ送り出せなくなっている状態です。
この場合、電気ショックによって正常な心臓のリズムを取り戻すことが重要です。
救急隊は電気ショックと胸骨圧迫を継続しながら、必要なタイミングでアドレナリン投与を検討します。
アドレナリンは何のために使うのか
アドレナリンは、心停止時に用いられる薬剤の一つです。
胸骨圧迫によって生じる限られた血流の中で、血管を収縮させ、心臓や脳などの重要な臓器に血液を届けることを助けます。
ただし、アドレナリンを投与すれば必ず心拍が再開するわけではありません。
心拍再開や生存退院への効果と、良好な脳機能を保って回復できるかという問題は区別して評価する必要があります。
また、心停止なら誰にでも最初からアドレナリンを投与するわけではありません。
心室細動のように電気ショックが有効な場合と、電気ショックが適応にならない場合とでは、蘇生処置における優先順位や薬剤投与のタイミングが異なります。
今の制度では医師の具体的指示が必要
救急救命士が心停止傷病者に実施するアドレナリン投与は、現在「特定行為」に分類されています。
特定行為とは、救急救命士が実施できる処置のうち、医師から個別の具体的指示を受ける必要があるものです。
例えば、救急救命士は傷病者の状態を確認し、医師に連絡して必要な情報を伝えます。医師はその情報を基に処置の適応を判断し、指示を出します。
救急救命士はその指示を受けて処置を実施します。
この仕組みは、薬剤投与の適応、傷病者の状態、本人の治療に対する意思、医学的な安全性などを確認するためのものです。
一方で、医師との通信や指示を受ける過程には一定の時間が必要です。
今回検討された「包括指示」とは
今回の大きな論点が、アドレナリン投与などの包括指示化です。
包括指示とは、医師があらかじめ定めた医学的な基準や手順に従い、救急救命士が個々の処置のたびに医師の具体的指示を受けなくても実施できる仕組みです。
例えば、一定の教育と認定を受けた救急救命士が、明確に定められた条件を満たす心停止傷病者に対して、事前の指示に基づき処置を実施することが考えられます。
これは「医師の指示なしに自由に薬剤を使う」という意味ではありません。
実施できる対象、手順、例外的に医師への相談が必要となる状況などを明確にすることが前提です。
また、今回の資料では包括指示化だけでなく、現場到着前に個別の指示を受ける「具体的指示の事前指示」や、複数の処置についてまとめて指示を受ける「具体的指示の一括指示」も比較されています。
つまり、医師による医学的な管理を維持しながら、指示の受け方を効率化する方法も検討されているのです。
実際に医師が指示を変更することは多いのか
厚生労働省資料では、全国5消防機関の1,292例を対象に、医師による修正指示の状況が調査されています。
| 処置 | 医師による修正指示の割合 |
|---|---|
| 静脈路確保 | 6.1% |
| アドレナリン投与 | 10.1% |
| 声門上気道デバイスによる気道確保 | 6.7% |
修正指示の内容には、終末期の患者への配慮、心肺蘇生に関する本人の意思、アドレナリンの投与回数の調整などが含まれていました。
この数字から分かるのは、多くの事例では当初求められた処置が大きく変更されなかった一方、一定の割合で医師の個別判断が必要だったということです。
したがって、修正指示が少ないことだけを理由に、すべての処置を包括指示に移せるとはいえません。
今回の見直しは、迅速な薬剤投与と安全性をどのように両立するかという問題でもあります。
2.交通事故で大量出血した男性。救急車の中で止血薬を使えるようになるのか

交通事故で腹部を負傷した42歳の男性
42歳の男性が乗用車同士の衝突事故で負傷しました。
救急隊が到着したとき、男性に意識はありましたが、顔色は青白く、冷や汗をかいています。
脈拍は速く、血圧も低下していました。腹部には強い痛みがあり、体内で重大な出血が起きている可能性があります。
救急隊は出血性ショックを疑い、全身状態の観察、必要な処置、搬送先の選定を進めます。
このとき、出血を抑える薬剤を病院到着前に投与できれば、患者にとって利益があるのでしょうか。
出血性ショックとは
人間の体は、血液によって全身の臓器へ酸素を運んでいます。
大量に出血すると、血液の循環量が不足し、脳や心臓などに十分な酸素を届けられなくなります。
これが出血性ショックです。
出血というと、腕や脚から大量の血液が流れ出る場面を想像するかもしれません。
しかし、交通事故では、腹部、胸部、骨盤など体の内部で出血している場合があります。
外から大量の血液が見えなくても、生命に危険が及ぶことがあるのです。
トラネキサム酸はどのような薬なのか

今回検討されている薬剤が、トラネキサム酸(TXA)です。
体には、出血した場所で血液を固め、出血を止めようとする仕組みがあります。
一方で、できた血液の塊を分解する仕組みも働いています。
トラネキサム酸は、血液の塊を分解する働きを抑える薬剤です。
傷ついた血管を直接修復したり、大きな血管からの出血を物理的に止めたりする薬ではありません。
そのため、外から確認できる出血に対する圧迫止血や、病院で行う手術・血管内治療などに代わるものではありません。
なぜ病院へ着く前に投与する必要があるのか
トラネキサム酸については、これまで世界各国で研究が行われてきました。
代表的な研究が、重篤な出血またはその危険がある外傷患者約2万人を対象とした「CRASH-2」です。
この研究では、トラネキサム酸を投与した患者群で死亡の減少が確認されました。
その後の解析では、投与までの時間が重要であることも示されています。受傷後早期の投与で利益が大きく、3時間を超える投与では出血による死亡が増える可能性が報告されています。
つまり、病院到着までに時間がかかる患者では、搬送中に投与することに意味があるかもしれません。
ただし、研究結果の解釈には注意が必要です。
「STAAMP」という病院前投与に関するランダム化比較試験では、対象者全体で統計学的に明確な死亡率改善は示されず、特定の患者群で利益が示唆されました。
また、厚生労働省資料が引用する「CAL-PAT」は観察研究であり、治療を無作為に割り付けた試験とは証拠の性質が異なります。
病院前投与の効果は、患者の重症度、出血の状態、投与までの時間などによって変わる可能性があります。
日本では年間約3,400件が対象となる可能性
厚生労働省資料では、消防機関のショック輸液実施件数などを基に、外傷による出血性ショックに対する処置の対象を全国で年間約3,400件と推計しています。
これは実際のTXA投与件数ではありません。また、すべての外傷患者が投与対象になるという意味でもありません。
今回の検討では、TXAの投与を救急救命処置の特定行為として追加することは医学的に妥当と評価されています。
一方で、実際に救急車内で安全に投与できるか、教育にどれだけの時間が必要か、病院到着までの時間に影響しないかなどについて、追加の検証が求められています。
新たに認める場合も、医師の具体的指示を受けて実施する想定です。
3.点滴はすでに入っている。それでも交換が必要なのか
在宅療養中に心停止した75歳の女性
75歳の女性は、医師と訪問看護師による在宅医療を受けています。
腕にはすでに点滴用の細い管が留置されていました。
ある日、女性が心停止となり、家族が119番通報しました。
到着した救急隊は蘇生処置を開始し、アドレナリン投与を検討します。
ここで問題になるのが、すでに使用されている点滴です。
「血管に管が入っているのなら、そのまま薬を投与すればよいのではないか」
そう思うのは自然なことでしょう。
なぜ点滴の種類が問題になるのか
救急救命士が静脈路を確保する際に使用できる輸液製剤は、現行の制度では乳酸リンゲル液に限定されています。
乳酸リンゲル液は、水分と電解質を含む輸液製剤です。
一方、在宅医療では、生理食塩水をはじめ、治療目的に応じてさまざまな輸液製剤が使用されています。
現在の法令・通知では、医師等が乳酸リンゲル液以外の輸液製剤を用いて確保した静脈路から、救急救命士がアドレナリンを投与する場合の取り扱いが明確にされていません。
これは、救急救命士による新たな静脈路確保に使用できる輸液の制限と、医師等がすでに確保した静脈路を使用する問題を、分けて考える必要があるためです。
今回の検討では、この取り扱いを明確にすることが提案されています。
点滴の交換にかかる時間はどれくらいか
厚生労働省資料には、救急救命士12名が参加した模擬調査の結果が紹介されています。
アドレナリン投与開始までの平均時間は次のとおりです。
| 条件 | 平均所要時間 |
|---|---|
| 乳酸リンゲル液に交換した場合 | 2分11秒 |
| 既存の輸液をそのまま使用した場合 | 1分07秒 |
| 時間差 | 約1分 |
心停止の蘇生処置では、時間を短縮することが重要です。
ただし、今回の調査だけで、この約1分の短縮によって実際に何人の命が救われるかを結論づけることはできません。
今ある点滴をすべて使えるようになるわけではない
今回、医学的妥当性が認められたのは、医師等が確保した末梢静脈路を利用する方法です。
末梢静脈路とは、主に腕などの静脈に留置する点滴の通り道です。
一方、心臓近くの太い静脈につながる中心静脈路は、器具の構造や取り扱いが複雑で、空気塞栓などの危険もあるため、今回の案では対象外とされています。
ただし、カテーテルの種類や穿刺部位によって扱いの整理が必要です。検討資料では、皮膚を穿刺した位置が四肢かどうかも実務上の判断基準として議論されています。
また、末梢静脈路であっても、輸液製剤の種類などを医師に報告し、具体的指示を受けることが求められています。
初回投与後は、速やかに指定された輸液製剤へ切り替えることも検討案に含まれています。
今回の議論は、薬剤の種類を無制限に広げるものではありません。
すでに確保されている安全な経路を、必要な場面でどう活用するかという問題です。
4.気管切開チューブが抜けた。在宅患者の呼吸をどう守るのか

在宅療養中の68歳の男性
68歳の男性は、神経疾患のために気管切開を受け、自宅で呼吸管理を行っています。
ある日、介護中に気管切開チューブが誤って抜けてしまいました。
男性は次第に呼吸が苦しくなり、家族が119番通報します。
気管切開とは、首の前面から気管に通じる開口部を作り、呼吸を確保するための方法です。
そこに入っているチューブが抜けると、十分に呼吸できなくなる場合があります。
チューブを戻せばよい、とは限らない
気管切開の直後は、皮膚から気管までの通り道が安定していません。
無理にチューブを入れると、正しい気管内ではなく周囲の組織へ入り込む危険があります。
一方、長期間経過して通り道が安定している患者では、条件によって再挿入が可能な場合があります。
しかし、気管切開を受けた理由や気道の構造によって、再挿入の危険性や必要な換気方法は異なります。
特に喉頭全摘出術を受けた患者などでは、通常の気管切開患者とは呼吸の通り道そのものが異なるため、一律の対応はできません。
今回検討されていること
厚生労働省資料では、気管切開チューブの事故抜去時の再挿入を、既存の「特定在宅療法継続中の傷病者の処置の維持」の範囲で整理することが提案されています。
対象として想定されているのは、気管切開から一定期間が経過し、通り道が安定している患者です。
気管切開直後の患者は対象から除外する方向です。
さらに、本人の状態、主治医や訪問看護師との調整、使用するチューブの準備、再挿入以外の換気方法なども検討課題とされています。
資料では、4消防機関の5年間の調査で、該当処置の実施事例は3件でした。
発生頻度は非常に少ないものの、実際に起きれば生命に関わる事態になり得ます。
そのような事態に備えて、救急隊、在宅医療の関係者、家族が日頃から情報を共有する必要があります。
ここで重要なのは、救急救命士による再挿入を検討することと、一般の家族が自己判断でチューブを入れることは、まったく別の問題だという点です。
5.点滴ができない心停止患者。骨から薬を投与する方法とは

静脈路を確保できない70歳の男性
70歳の男性が自宅で心停止となりました。
救急隊が蘇生処置を行いながら、アドレナリンを投与するために静脈路確保を試みます。
しかし、血管が細く、十分に確認できません。
心停止などで血液の循環が悪くなると、末梢の血管が確保しにくいことがあります。
そこで代替手段として知られているのが、骨髄路です。
骨の中から薬剤を投与できるのか
骨の内部には骨髄があり、血液循環とつながる血管網が存在します。
専用の器具で骨髄内に針を留置し、薬剤や輸液を投与する方法を骨髄路確保といいます。
海外では、静脈路確保が難しい救急患者への代替手段として使用されてきました。
ただし、針を骨に穿刺する侵襲的な処置であり、感染、誤穿刺、輸液の漏出などに注意が必要です。
なぜ日本ではすぐに導入しないのか
今回の厚生労働省資料では、骨髄路の有用性を認めつつ、救急救命士による新たな処置としての追加は見送る方向が示されています。
その理由の一つが、処置の実施頻度です。
資料では、骨髄路確保が必要となる可能性がある事例を全国で年間約25,000件と推計しています。
これを運用中の救急救命士数で割ると、1人あたり年間約0.8件になります。
この数字は、救急救命士一人ひとりが十分な経験を積み、技術を維持することの難しさを示しています。
また、近年の大規模な比較研究では、骨髄路を最初に選択することが静脈路より優れているとまでは示されていません。
厚生労働省資料でも、静脈路を第一選択とし、迅速な静脈路確保ができない場合に骨髄路を考慮するという医学的な位置づけが示されています。
導入を見送ることも医療安全の判断
新しい処置を認めるには、器具を購入するだけでは足りません。
教育を行い、技術を評価し、その能力を継続して維持する必要があります。
さらに、救急車内で確保した骨髄路を搬送先の医療機関が安全に取り扱える体制も必要です。
今回の見送り案は、骨髄路そのものが無効だと判断されたわけではありません。
有用性と安全性、実施頻度、教育負担、費用対効果などを総合的に検討した結果です。
海外で使用されているからという理由だけで、日本でも直ちに導入すべきだとはいえないのです。
6.病院で働く救急救命士。特定行為の認定は誰が行うのか
救急外来で重症患者を受け入れる
救急車が重症患者を病院へ搬送しました。
救急外来では、医師、看護師、そして病院に勤務する救急救命士が患者の受け入れに関わっています。
かつて、救急救命士の活動は主に病院到着前の救急現場や搬送中を想定していました。
しかし、2021年10月の救急救命士法改正により、重度傷病者が医療機関に到着してから入院するまでの間などにも、法定の範囲で救急救命処置を実施できるようになりました。
ただし、救急外来で働く救急救命士が、医師や看護師とまったく同じ業務を行えるという意味ではありません。
実施できる処置には、法律や通知による制限があります。
地域によって認定の仕組みが違う
救急救命士が特定行為を実施する場合、必要な教育や技能確認、認定が求められます。
消防機関に所属する救急救命士については、全国47都道府県のメディカルコントロール協議会で認定が行われています。
しかし、医療機関に所属する救急救命士については、認定業務を行っていない地域もあります。
そこで今回、都道府県メディカルコントロール協議会による認定を基本としつつ、学会による認定制度で補完する案が示されています。
これにより、認定の機会が少ない地域の問題を改善できる可能性があります。
一方で、認定する組織が複数になることで基準に違いが生じないか、研修費用を誰が負担するのか、他の医療職種とどう協力するのかといった課題があります。
救急救命士が病院で活躍するためには、資格や認定だけでなく、医療チームの中で安全に業務を行える体制が必要です。
7.今回の6つの見直しで何が変わる可能性があるのか
ここまでの内容を整理すると、今回の検討は、処置の追加だけでなく、医師の指示方法や既存処置の取り扱い、認定制度まで含んでいることが分かります。
| 検討項目 | 今回の主な見直し案 | 患者への期待される利益 | 検討状況 |
|---|---|---|---|
| アドレナリン等の包括指示化 | 医師の指示方法を変更 | 処置までの時間短縮 | 運用条件を検討 |
| 外傷へのTXA投与 | 特定行為に追加 | 早期投与による転帰改善 | 医学的妥当性を評価、追加検証が必要 |
| 既存静脈路からのアドレナリン投与 | 末梢静脈路の利用を明確化 | 輸液交換時間の短縮 | 医学的に妥当、通知等での整理を提案 |
| 気管切開チューブ再挿入 | 対象と実施条件を整理 | 呼吸管理の継続 | 既存処置の範囲で整理する案 |
| 骨髄路確保 | 新たな処置への追加を検討 | 静脈路確保困難時の代替手段 | 追加見送りの案 |
| 病院勤務救急救命士の認定 | 学会認定制度による補完 | 地域差の改善、安全な処置体制 | 認定制度の仕組みを検討 |
この表は、2026年10月7日の第3回検討会資料に示された案を整理したものです。正式な制度改正の結果を示したものではありません。
8.なぜ救急救命士の処置拡大には時間がかかるのか
日本で救急救命士制度が創設されたのは1991年です。
それ以前、救急隊員が行える処置は現在と比べて限られていました。
救急救命士制度の創設により、医師の指示の下で高度な救急救命処置を実施する資格制度が整備されました。
その後も、処置範囲は段階的に見直されてきました。
救急救命士制度と処置範囲の主な変遷
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1991年 | 救急救命士制度の創設 |
| 2003年 | 除細動の包括指示化 |
| 2004年 | 気管挿管の追加 |
| 2006年 | アドレナリン投与の追加 |
| 2014年 | 心停止前の輸液、ブドウ糖投与などの追加 |
| 2021年 | 救急外来など医療機関到着後の活動範囲拡大 |
| 2026年 | 処置範囲、医師の指示方法、認定制度の見直しを検討 |
海外との違いをどう考えるか
米国では1960年代後半から、病院前救護を担うパラメディックの制度や教育が発展してきました。
日本の救急救命士制度は1991年に創設されており、制度の出発時期には20年以上の差があります。
現在も、地域によっては米国のパラメディックが日本の救急救命士より広い範囲の薬剤投与や処置を担っています。
ただし、米国でも資格区分や州法、地域の医療指示体制によって実施できる処置は異なります。
処置の種類だけで両国の救急医療の優劣を判断することはできません。
比較すべきなのは、処置の数だけではなく、その処置を誰が、どのような教育と医学的管理の下で実施し、患者の転帰にどう結びつけているかという点です。
日本の救急救命士制度にも独自の特徴があります。
全国的な資格制度、消防機関を中心とした救急搬送体制、メディカルコントロール協議会による医学的管理などです。
こうした既存の仕組みを活用しながら、今後の救急医療の需要に対応できる制度へ発展させていく必要があります。
9.医師の指示を減らせば、救急医療はよくなるのか
この問題を考える際に忘れてはならないのが、医師の指示は単なる行政手続きではないということです。
傷病者の状態によっては、定められた手順どおりに処置を進めるだけでは対応できない場合があります。
終末期の患者、複数の重い病気を抱える患者、通常の処置に適さない状況などでは、医学的な判断が必要です。
その一方で、すべての処置について、救急救命士がその都度医師と通信しなければならない仕組みが最適なのかという疑問もあります。
重要なのは、医師の指示をなくすことではなく、どのような状況では事前に定められた指示で安全に実施でき、どのような状況では個別の医学的判断が必要なのかを整理することです。
これを支えるのが、メディカルコントロール(MC)です。
メディカルコントロールには、主に次の4つの役割があります。
- 救急活動の医学的な手順(プロトコル)を定める
- 医師が指示、指導、助言を行う
- 救急活動の内容を後から検証する
- 救急救命士などへの教育を行う
救急救命士の裁量が広がるほど、こうした医学的管理の質も重要になります。
迅速な判断と安全性の確保は、対立するものではありません。
両者を両立させる制度と教育が必要なのです。
10.処置が増えるだけで、救急救命士の専門性は高まるのか
救急救命士に新たな処置を認めるとき、どうしても「何ができるようになったか」という点に注目が集まります。
しかし、実際の救急現場で重要なのは、処置を行う技術だけではありません。
患者の訴えや症状を確認し、生命に危険があるかを判断する。必要な処置を選択するとともに、どの病院へ搬送するべきかを考える。医師や受け入れ先医療機関と情報を共有する。
こうした一連の判断が、患者の救命やその後の回復に関わっています。
例えば、交通事故で出血性ショックが疑われる患者にTXAを投与できるようになったとしても、そのために現場滞在時間が長くなり、手術が可能な病院への搬送が遅れれば、本来期待される利益が小さくなる可能性があります。
反対に、搬送中の適切なタイミングで安全に投与できるのであれば、患者に利益をもたらすかもしれません。
つまり、何を実施できるかだけでなく、いつ、誰に、どのような状況で実施するべきかという判断能力が問われるのです。
大学教育に求められるもの
救急救命士を養成する大学では、気管挿管、静脈路確保、薬剤投与などの実技教育が行われています。
こうした技術を習得することは当然重要です。
しかし、手順を正確に実施できることと、実際の傷病者にその処置が必要かを判断できることは同じではありません。
今後は、病態生理学、薬理学、臨床判断、医療安全に加え、研究結果を読み解く能力も一層求められるでしょう。
さらに、救急活動記録や患者の転帰を分析し、実際にどのような処置や判断が患者に利益をもたらしているのかを検証することも必要です。
救急救命学は、手技を学ぶだけの分野ではありません。
救急患者の状態、処置、時間、救急隊の判断、搬送、医療機関での治療を、一つの連続した医療の流れとして研究する分野でもあります。
11.救急救命士制度のこれから
1991年に救急救命士制度が創設されてから、35年が経過しました。
この間、日本の病院前救護は着実に変化してきました。
心停止傷病者への除細動、気管挿管、薬剤投与、心停止前の輸液など、救急救命士が担う役割は段階的に広がっています。
今回の検討会で注目したいのは、単に新しい薬剤や処置が追加される可能性だけではありません。
救急救命士が、どのような条件の下で医学的判断を担い、どのような教育や評価を受けて、その役割を果たすのかという問題が改めて議論されていることです。
私は、処置範囲の拡大そのものを救急医療の進歩と同一視するべきではないと考えています。
例えば、アドレナリンをより早く投与できる制度が整っても、適切な症例の選択や胸骨圧迫の質が伴わなければ、十分な成果は期待できません。
TXAを救急車内で投与できるようになっても、出血性ショックを適切に評価し、迅速に適切な医療機関へ搬送できなければ、その効果を最大限に生かすことはできないでしょう。
また、骨髄路のように医学的な有用性が認められている処置であっても、教育体制や安全性の確保が不十分であれば、導入について慎重に判断する必要があります。
救急救命士に求められる専門性とは、実施できる処置の数だけでは測れないものです。
目の前の傷病者に何が起きているのか。
今、何を優先するべきなのか。
その処置は本当に必要なのか。
そして、自らの判断と処置が患者の転帰にどのような影響を与えたのか。
こうした問いに対して、医学的根拠に基づいて判断し、自らの活動を検証できることが専門職としての成長につながると考えます。
救急救命士制度が次の段階へ進むためには、処置範囲の拡大とともに、教育、医学的管理、研究、活動評価の仕組みを発展させることが不可欠です。
12.まとめ:救急救命士の処置拡大は、患者のための制度改革であるべき
2026年10月7日の検討会では、アドレナリン投与等の包括指示化、TXA投与、既存静脈路の利用、気管切開チューブの再挿入、骨髄路確保、病院勤務救急救命士の認定制度という6つの課題が取り上げられました。
それぞれの検討状況は異なります。
医学的妥当性が認められ、制度上の取り扱いを明確にする方向のものもあれば、実証研究が必要なもの、現時点では追加を見送る方向のものもあります。
共通しているのは、患者にとっての利益と安全性をどう両立させるかという問題です。
救急車にどれほど新しい薬剤や医療機器が積まれても、それだけで救急医療がよくなるわけではありません。
必要な患者に、適切な判断の下で、適切な処置を、適切な時期に届けられること。
今回の見直しが、そのような救急医療体制の発展につながることを期待します。
よくある質問(FAQ)
Q1.救急救命士は、今すぐアドレナリンを医師の具体的指示なしで投与できるのですか?
いいえ。2026年10月7日の検討会では、一定の条件下で包括指示による実施を認めることなどが検討されました。今回の検討資料だけで正式な制度改正が決定されたわけではありません。
Q2.トラネキサム酸は、交通事故で負傷した人なら誰にでも使用できる薬ですか?
いいえ。重大な出血や出血性ショックが疑われる患者が対象となる薬剤です。投与の効果や危険性は、患者の状態や受傷からの時間などによって異なります。救急救命士による投与は、医学的妥当性が評価された段階で、実証研究などが必要とされています。
Q3.点滴が入っている患者には、そのまま救急救命士が薬を投与できるようになるのですか?
すべての点滴を使用できるわけではありません。今回の検討では、医師等が確保した既存の末梢静脈路を利用することが提案されています。輸液製剤の確認、医師の具体的指示、安全な操作などが必要です。
Q4.なぜ骨髄路の導入は見送られる方向なのですか?
骨髄路は、静脈路を確保できない場合の代替手段になり得ます。しかし、実施頻度が少なく、技術を維持するための教育、器具の費用、安全性などに課題があります。今回の資料では、現時点では新たな救急救命処置として追加を見送る案が示されています。
Q5.救急救命士の処置範囲が広がれば、救命率は上がるのですか?
処置によって救命率の改善が期待される場合はありますが、必ず改善するとは限りません。処置の適応判断、実施のタイミング、処置の安全性、搬送時間、医療機関での治療など、さまざまな要因が患者の転帰に関わります。そのため、制度の見直しと併せて効果を検証することが必要です。
参考資料・文献
1.厚生労働省(2026年10月7日)「第3回 救急救命処置の在り方に関する検討会」
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_76571.html
2.厚生労働省(2026年10月7日)「救急救命処置の範囲の見直しに関する検討」第3回検討会・資料1(55ページ)。
3.厚生労働省(2026年10月7日)「救急救命処置の在り方に関する検討会 開催要綱・構成員名簿」第3回検討会・参考資料1。
4.CRASH-2 trial collaborators, et al. (2010). Effects of tranexamic acid on death, vascular occlusive events, and blood transfusion in trauma patients with significant haemorrhage (CRASH-2): a randomised, placebo-controlled trial. The Lancet, 376(9734), 23–32.
https://doi.org/10.1016/S0140-6736(10)60835-5
5.CRASH-2 collaborators, et al. (2011). The importance of early treatment with tranexamic acid in bleeding trauma patients: an exploratory analysis of the CRASH-2 randomised controlled trial. The Lancet, 377(9771), 1096–1101.
https://doi.org/10.1016/S0140-6736(11)60278-X
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https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/30429930/


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