「せーので持ち上げる」現場からの転換

ノーリフトポリシーと救急搬送の安全対策 世界の救急車
救急現場でのノーリフトポリシーを考えるための主な搬送資器材。電動ストレッチャー、階段搬送具、ターポリン担架を活用し、隊員の腰痛予防と傷病者の安全を両立させる。

ノーリフトポリシーとは何か

日本の医療現場に本当に合うのかを中立的に考える

「ちょっと手伝って」「せーので持ち上げよう」

医療・介護・救急の現場では、こうした声かけが日常的に聞かれます。ベッドから車いすへ、床上からストレッチャーへ、階段から救急車内へ。目の前に困っている人がいれば、職員は自然に身体を差し出し、何とか支えようとします。

その姿勢は、決して悪いものではありません。患者、利用者、傷病者を大切にしたいという思いがあるからです。

しかし、その一方で、介助や搬送に関わる職員の腰や肩、膝には大きな負担がかかっています。とくに救急現場では、狭い住宅、急な階段、交通事故現場、屋外の不整地など、環境を選ぶことができません。病院や施設のようにベッドの高さを整えたり、十分なスペースを確保したりできない場面も多くあります。

そこで注目されている考え方の一つが、「ノーリフトポリシー」です。

ノーリフトポリシーとは何か

ノーリフトポリシーを直訳すると、「持ち上げない方針」となります。

ただし、これは「患者や利用者に触れてはいけない」「人の手による介助をなくす」という意味ではありません。実際には、「人力だけで無理に抱え上げない」「必要な場面では機器や補助具を活用し、安全な方法を選ぶ」という考え方です。

たとえば、医療・介護現場では、スライディングシート、移乗ボード、リフト、電動ベッド、スタンディングマシーンなどが使われます。救急・搬送現場では、電動ストレッチャー、スクープストレッチャー、搬送補助具、階段搬送具、スライディングシートなどが関係します。

大切なのは、単に「機器を買うこと」ではありません。どの場面で、誰が、どの資器材を使い、どのように声をかけ、どのようにチームで動くか。そこまで含めた職場全体の安全文化が、ノーリフトポリシーの本質です。

つまり、ノーリフトポリシーは「冷たい機械化」ではなく、「職員と患者の双方を傷つけないための段取り」と考えると理解しやすくなります。

なぜ必要とされるようになったのか

ノーリフトポリシーが広がってきた背景には、医療・介護・救急現場に共通する問題があります。

一つは、職員の腰痛や筋骨格系障害です。人を抱え上げる動作は、荷物を持つ動作とは異なります。相手は体格も状態もさまざまで、急に力が抜けたり、痛みで動いたり、不安で身体をこわばらせたりします。介助者がどれだけ正しい姿勢を意識しても、狭い場所や低い位置からの移動では、腰を曲げたり身体をひねったりせざるを得ないことがあります。

もう一つは、人材不足です。経験豊富な職員が腰を痛めて現場を離れることは、個人にとっても組織にとっても大きな損失です。新人や若手にとっても、「この仕事を続けると身体を壊すかもしれない」という不安は、離職につながる要因になり得ます。

さらに、患者や利用者、傷病者の安全も重要です。人力で無理に持ち上げると、途中で支えきれず転落する危険があります。皮膚が弱い高齢者では、ずれや摩擦によって皮膚損傷が起こることもあります。救急現場では、外傷や脳卒中、心不全など、病態によっては不用意な体位変換や移動が負担になることもあります。

「職員が頑張ればよい」という考え方だけでは、限界があります。支える側の身体が壊れれば、支えられる側の安全も守れません。ノーリフトポリシーは、その当たり前の事実を、個人の努力ではなく組織の仕組みとして考え直すための視点です。

日本の文化と相性はよいのか

ノーリフトポリシーは、日本の現場文化と合う面もあれば、難しい面もあります。

相性がよい点として、日本の医療・介護・救急現場には、手順を守る文化、安全確認を大切にする文化、チームで動く文化があります。救急隊であれば、現場到着から観察、処置、搬送まで、声かけと役割分担を行いながら活動します。病院や施設でも、申し送りやマニュアル、チェックリストを通じて標準化が進められています。

こうした文化は、本来ノーリフトポリシーと相性がよいものです。どの傷病者に、どの搬送方法を選ぶか。何人で動くか。どの資器材を先に準備するか。これらをチームで判断する力は、日本の現場が持つ強みです。

また、日本の現場では、患者や利用者への丁寧な声かけ、安心感の提供が重視されます。機器を使う場合でも、「今から身体の下にシートを入れます」「この道具を使うと、腰や皮膚への負担を減らせます」と説明することで、不安を軽くすることができます。人を大切にする文化とノーリフトポリシーは、本来、矛盾するものではありません。

一方で、難しさもあります。

日本では、「人の手で支えることが温かいケア」という価値観が根強くあります。機器を使うと、冷たい、機械的、手抜きのように見えるのではないかと感じる人もいます。忙しい現場では、「機器を出すより、今すぐ持ち上げた方が早い」と判断されることもあります。そして、緊急時以外で人を「引きずる」ということをあまり歓迎しません。

また、先輩の経験や職場の慣習が強い現場では、新しい手順が定着しにくいことがあります。「昔からこの方法でやってきた」「自分たちもこう教わった」という空気があると、若い職員が補助具の使用を提案しにくくなる場合もあります。

さらに、「患者さんのためなら自分が少し無理をすればよい」という職業倫理も、見方を変えると危うさを含んでいます。その気持ちは尊いものですが、無理を重ねて職員が傷めば、結果として現場全体の力を弱めてしまいます。

導入すればすべて解決するのか

ノーリフトポリシーは有効な考え方ですが、万能ではありません。

まず、機器を購入する費用が必要です。リフトや電動ストレッチャー、階段搬送具などは安価なものではありません。導入しても、保管場所がなければ使いにくくなります。点検、清掃、充電、故障時の対応も必要です。

教育と訓練も欠かせません。資器材は、置いてあるだけでは安全につながりません。使うタイミング、禁忌、声かけ、チームの立ち位置、緊急時の切り替えを訓練しておく必要があります。夜間や少人数勤務のときにどう運用するかも、現実的な課題です。

とくに救急現場では、病院や施設のノーリフトをそのまま当てはめることはできません。

救急隊は、現場を選べません。狭い玄関、急な階段、エレベーターのない集合住宅、浴室、トイレ、道路上、田畑、山林など、搬送環境は毎回異なります。傷病者の状態も、意識障害、呼吸困難、外傷、心停止、泥酔、認知症、強い痛みなどさまざまです。

そのため、救急現場で大切なのは、「完全に持ち上げない」ことではなく、「不必要な人力持ち上げを減らす」ことです。

たとえば、床上の傷病者をいきなり腕力で抱え上げるのではなく、スクープストレッチャーを活用する。ベッドからストレッチャーへの移乗では、スライディングシートや移乗補助具を使う。階段搬送では、階段搬送具や応援隊を活用する。救急車への収容では、電動ストレッチャーの機能を適切に使う。

こうした一つひとつの判断が、救急隊員の腰痛予防と傷病者安全の両立につながります。

ただし、災害現場や緊急度の高い場面では、理想的な資器材選択ができないこともあります。狭い場所からの救出、火災危険、交通危険、急変リスクがある場合には、迅速な退避や搬送が優先されることもあります。だからこそ、ノーリフトポリシーを「絶対に持ち上げないルール」としてではなく、「安全な方法を選ぶための考え方」として理解する必要があります。

日本で現実的に進めるには

日本の現場でノーリフトポリシーを進めるなら、いきなり「完全なノーリフト」を掲げるよりも、「無理な持ち上げを減らす」ことから始める方が現実的です。

まずは、どの場面で職員の身体に負担がかかっているかを洗い出すことが重要です。ベッドから車いすへの移乗なのか、床上からの引き起こしなのか、階段搬送なのか、救急車への積み込みなのか。現場ごとに危険な動作は異なります。

次に、資器材を使う場面を具体的に決めます。「使えるときは使う」では、忙しい現場では使われません。「この条件ならスライディングシートを使う」「この場所では応援要請を考える」「この体格差なら人力抱え上げを避ける」というように、判断の目安を共有する必要があります。

さらに、教育では「腰を守りましょう」だけでなく、「なぜこの方法が傷病者にとっても安全なのか」を伝えることが大切です。職員の安全だけを強調すると、「患者より自分を優先している」と誤解されることがあります。しかし実際には、職員が安定した姿勢で介助できる方が、傷病者の転落や痛み、不安も減らしやすくなります。

救急現場では、現場判断、チームワーク、資器材選択を結びつけた訓練が必要です。単に器具の使い方を覚えるだけでなく、「この住宅ならどの経路を使うか」「この階段なら何人必要か」「この傷病者にはどの体位が安全か」を考える訓練です。

ノーリフトポリシーは、機械化か手作業かの二択ではありません。人の手の温かさを残しながら、無理な力仕事を減らす。その中間に、日本の現場に合った形があるのではないでしょうか。

まとめ

ノーリフトポリシーは、日本にそのまま輸入すればよい制度ではありません。医療、介護、救急の現場環境はそれぞれ異なり、とくに救急現場では、すべての場面で機器を使えるわけではありません。

一方で、従来のように「人力と根性」に頼る介助や搬送には限界があります。職員が身体を壊しながら現場を支える仕組みは、長く続きません。

日本の現場文化に合わせるなら、「持ち上げない」という言葉よりも、「無理に持ち上げない」「職員も傷病者も傷つけない」という表現の方が受け入れられやすいかもしれません。

大切なのは、機器を使うか、人の手で行うかを対立させることではありません。その場面で最も安全な方法を選べる職場をつくることです。

ノーリフトポリシーは、冷たいケアではありません。支える側の身体を守ることで、支えられる側の安全も守るための考え方です。

あなたの現場では、“安全に支えるための工夫”が、個人の努力だけに任されていないでしょうか?

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