第1回 なぜ日本はDMATという道を選んだのか

救急の仕組み

TEMSから30年前の阪神・淡路大震災へ戻って考える

前回の記事では、ロサンゼルスでSWATとともに活動するLAFDのTEMSを取り上げた。

LAFDが公式に紹介するTEMS Unitは、高度な訓練を受けたParamedicが法執行機関と連携し、Active Shooterのような危険性の高い事案にも対応する仕組みである。そこで印象的だったのは、単に「救急救命士がSWATについていく」ことではなかった。

傷病者の近くへ医療を届けるために、現場安全や戦術環境を理解したParamedicそのものを前方へ配置する。

そこに大きな特徴があった。では、日本はどうだったのだろう。

日本にも「病院へ運ぶまで医療を待たせない」という同じ問題があった。しかし日本が大きく発展させたのはTactical Paramedicではなく、医師・看護師などからなるDMATだった。

この違いはどこから生まれたのか。その答えを探すため、1995年1月17日まで時計を戻してみたい。

阪神・淡路大震災で、患者は大阪へ運べなかった

阪神・淡路大震災をDMAT誕生の背景として説明するとき、「災害現場に医師がいなかった」という話になりがちである。しかし、実際に起きていた問題はもっと大きかった。

内閣府の検証によると、発災後6時間以内に大阪府内の病院へ転送された患者はわずか3例だった。大阪方面への転送がピークになったのは、発災から約30時間後である。

大阪側の医療機関が被災地の病院へ連絡を試みても、当日中に連絡が取れたのは15%にすぎなかった。さらに患者搬送へのヘリコプター利用も、初日はわずか1件だった。

神戸と大阪は、決して遠く離れているわけではない。大阪には被災を免れた病院も、医師も、治療能力もあった。それでも患者を十分に送り出せなかった。

つまり、医療資源が存在していても、それを必要な傷病者へ結び付けるシステムが動かなければ、救命にはつながらない。

阪神・淡路大震災が突きつけた問題の一つは、そこだった。

病院そのものが被災していた

災害では、患者だけが被災するのではなく、病院も被災する。

建物、電気、水、通信、医療機器。通常なら患者を受け入れる側の病院が機能を失いながら、そこへさらに多数の傷病者が集中する。しかも通信が途絶すれば、「どの病院が診療できるのか」「どこに何床あるのか」「どの病院へ搬送すればよいのか」さえ分からなくなる。

病院前のトリアージ、病院間連携、患者分散、広域搬送も十分には機能しなかった。だから、阪神・淡路大震災の教訓を「現場に医師がいなかったからDMATができた」と単純化してはいけない。壊れていたのは、救助現場から病院までをつなぐ医療システムそのものだった。

約500人の「防ぎ得た災害死」

現在のDMAT事務局は、阪神・淡路大震災で、平時と同じ救命医療が提供されていれば救命できた可能性のある「防ぎ得た災害死」が約500人あったと考えられていることをDMAT創設の背景として説明している。

これは「500人は確実に救えた」という意味ではない。震災後の検証から、平時なら救命できた可能性のある死亡が相当数存在したと推計され、それが日本の災害医療体制を変える大きな動機になった、と理解する方がよいだろう。

震災後、日本は「線」をつなぎ直した

阪神・淡路大震災の後、日本では災害医療体制が次々と整備された。「災害拠点病院」「広域災害・救急医療情報システム」「現在のEMIS」「医療救護班」そして広域医療搬送。

これは、震災で切れてしまった、現場 → 搬送 → 病院 → 被災地外の医療という線をつなぎ直す作業だったと考えると分かりやすい。

ところが、制度を整えても一つの問題が残った。それは時間である。

「要請が来てから準備する」では遅い

2004年、厚生労働省がDMAT研修事業を始める前に作成した事業評価書には、当時の問題意識がかなり明確に書かれている。従来の医療救護班は、被災都道府県からの派遣要請に基づいて調整される。そのため、救護班の準備から派遣までに時間がかかり、迅速性を欠く事例が生じることが危惧されていた。

そこで構想されたのが、

  • 災害急性期、概ね48時間以内から活動できる
  • あらかじめ訓練されている
  • 医療内容を共有する
  • 通信や連絡経路を共有する
  • 指揮命令系統を理解している

機動的な医療チーム、それがDMATである。現在のDMAT事務局は、日本DMATの創設を2005年4月としている。

その1年前、東京はすでにDMATを始めていた

日本DMATより一足早く動いたのが東京都だった。東京消防庁によると、東京都は2004年8月に東京DMATを創設した。

その背景として東京消防庁自身が挙げているのが、阪神・淡路大震災で生じた「医療の空白」である。そして東京DMATの仕組みで興味深いのは、医師や看護師だけでは完結していないことだ。東京消防庁には「東京DMAT連携隊」が置かれ、指定病院へ出場してDMATを乗せ、災害現場まで搬送する。

現場では、DMATの活動支援と安全管理を担当し、DMATの出場要請も東京消防庁指令室が行う。つまり日本も、「病院の医師を好きな場所へ入れればいい」という制度を作ったわけではない。消防の救助能力、指揮、安全管理と、病院側の医学的能力をどう接続するか。そこまで含めて仕組みを作ろうとしていたのである。

TEMSとDMATは、似た問いから始まっている

ここでLAFD TEMSへ戻ってみよう。TEMSも東京DMATも、出発点には似た問いがある。「病院へ到着するまでの時間に、救える命を失わないためにはどうするか」

ただし解決方法は違う。LAFD TEMSでは、現場環境を熟知したParamedicの能力を高め、前へ出す。日本では、病院側の医療能力をDMATとして現場へ近づける方向を大きく発展させた。

どちらが優れているという話ではない。それぞれの医療制度、EMS制度、歴史の中で選ばれた答えである。

DMATは何を埋めるために生まれたのか

DMATは消防の代わりではない。救急救命士の代わりでもない。救助と病院医療の間に存在した「時間と場所の空白」を埋めるための仕組みだった。阪神・淡路大震災からその成立過程を見る限り、DMATが必要とされた歴史的理由は十分に理解できる。

しかし、ここから次の疑問が生まれる。LAFD TEMSの記事で見たのは、「病院医療をそのまま前へ運ぶ」方法ではなかった。

現場にいるParamedicの医療能力を高める方法だった。日本の救急救命士も、1995年当時の救急救命士ではない。

気管挿管ができる。

薬剤投与ができる。

心肺停止前の輸液もできる。

救急救命士制度そのものが進化している。

では2026年の現在も、「医療を前へ出すこと」と「医師を前へ出すこと」は同じなのだろうか。次回は、そこへ踏み込んでみたい。

この記事で考えたいこと

  1. 阪神・淡路大震災で不足していたのは「医師」だったのか、それとも「医療を動かすシステム」だったのか。
  2. DMAT創設当時の役割分担を、現在の救急救命士制度にもそのまま当てはめてよいのか。
  3. 「医療を前へ届ける」方法は、本当に医師を前進させることだけなのか。

参考文献

  • 内閣府「阪神・淡路大震災教訓情報資料集」
  • DMAT事務局「DMATとは」
  • 厚生労働省「災害派遣医療チーム(DMAT)研修事業 事業評価書」
  • 東京消防庁「他機関との連携による救急活動・東京DMATとの連携」
  • Los Angeles Fire Department “LAFD Tactical Emergency Medical Support Unit Performs Active Shooter Training”

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